私がDJになるまで②
前回の第1回において、私はモテたい一心で合唱コンクールの指揮台に立ち、脳汁を噴出させた中3まで話を一気に進めてしまった。しかし、自分の記憶をよくよく整理してみると、あの自意識過剰な指揮者が誕生する少し前、中学2年の夏に、私のその後の人生のネジを決定的に狂わせる「アメリカ密航イベント」が発生していたことを完全に書き忘れていた。大事な記憶がすっ飛んでいたのである。個人のチラシの裏(HP)ゆえのガバガバな時系列をどうかお許しいただきたい。
当時、我が家のミュージックディレクター(両親)の手によって、私は突如として「本場」へと強制輸送されることになった。アメリカ・ノースカロライナ州リンカントンという片田舎への、1ヶ月間のホームステイである。(父ちゃん母ちゃんありがとう)そこそこ不真面目だったが、いくら更生のためとはいえ、まともに英語など喋れるわけもない無力な中学生男子を単身アメリカの地方都市へ放り込むという、2026年なら少々ざわつくレベルの荒療治だ。ただ、当時の私にとって、日本人が一人もいない小さな小さな町へのホームステイは、五感のすべてが本場アメリカのカルチャーにぶん殴られるような濃密すぎる原体験となった。

↑実際に行ったノースカロライナ州リンカントンの街並み。映画Back To The Futureの舞台、ヒルバレーのような街だった。

↑この宝石屋さんを営む家にステイした。同い年のCalebとJoelという双子がホストだった。元気かな。
何しろ、スマホなんて便利なものはなく、携帯電話すらバカデカかった時代だ。翻訳アプリなど存在せず、誰も自分の意思を代弁してくれる人はいない。耳に全神経を集中させ、必死に「なんとなく」を理解し、伝えなければマジで生きていけない。本当に自分一人の力でステイ先に溶け込むしかなく、ここで私は「言いたいことは言わないと1ミリも伝わらない」というアメリカ人的な自己主張の意識を、脳髄に強く植え付けられることになった。
さらに、当時はまだ人種差別がゴリゴリに残っていた時代でもあった。肌の色だけで強烈に差別をするその不条理な現実を何度も垣間見たことは、子供心にも強烈なインパクトがあり、「良くねえな、こういうの」と静かに憤ったことを覚えている。綺麗事だけでは片付かない世界の片隅、広大なノースカロライナの農場で過ごした時間は、私の人生において忘れられない一ヶ月となった。
そんな過酷なサバイバル環境下の生活にもようやく慣れてきたころ、ホストファミリーから「どこに行きたい?」と尋ねられた。私は待ってましたとばかりに「ショッピングモールに行きたい」と答えた。当時からすでにスニーカーの沼に片足を入れていた私は、渡米の前年1994年の10月と11月に、スニーカー史に燦然と輝く『Air Jordan 1』が歴史上、初めて復刻されたことをきっちり情報として掴んでいた。日本のファッション雑誌で「超貴重な伝説の靴」として写真でしか拝めなかったAJ1。埼玉のいなかっぺ少年には到底手に入る機会などなかった代物だが、アメリカでは当時そんなに人気がなく、在庫が余っていることも知っていた。その為、アメリカの大型デパート「JCペニー」に行けば、日本で買うより遥かに安く手に入ると聞いており、行きたい場所を聞かれたら「イエス!JCペニー」という準備だけは出来ていたのである。
私は日本から握りしめてきた貴重なお年玉をすべてはたき、その神聖なる一足を現地調達した。憧れのAJ1をノースカロライナのカラッとした空気の中でそれを誇らしげに履いて歩く。この時点で、私のストリート自意識はアメリカの青空よりも高く、そして肥大化していた。

さらに、その後もホストが「マカレナのCDを買いたい!一緒にラインダンスを踊ろうぜ!」と、JCペニー内のCDショップへ連れて行ってくれた。世間が世界的大ヒットの陽気な波に揺られている中、ティーンエイジャーの売り場で遭遇してしまったのが、歴史的名盤、TLCの『CrazySexyCool』であった。
リリース時期を調べてみると1994のリリースの為、新譜だった訳ではないと思う。が、猛プッシュという形で棚に鎮座していたその真っ赤なジャケットを見て、別に強い興味があったわけではなく、ただの「渡米の記念」という極めて単純な動機で小脇に抱えてレジへ持っていった。だが、帰国後にそのCDを一通り擦り切れるほど聴き込んだ結果、私は同世代の友人たちがJ-POPの階段を登っている間に、妙に早い段階で「洋楽R&B童貞」を卒業してしまったのである。こうして、言葉の壁や差別の現実を肌で知りつつ、自力でR&Bの劇薬を摂取してストリートの下地を完成させて帰国したからこそ、私はあの中3の合唱コンクールで「狂気の指揮者」へと変貌を遂げたわけだ。

しかし、空間支配の快感に目覚め、完全に音楽の神に愛されたと勘違いした中3から、わずか1年も経たないうちに、私の音楽人生、および表現者としてのキャリアは完全なる心肺停止状態を迎える事になる。理由はシンプル、全国大会をリアルに目指す強豪高校に、スポーツ推薦という肉体労働のゴールドチケットで入学してしまったからだ。昨日まで「学校中の女子が俺の背中を見ている……」などと妄想を爆発させていた男が、入学した瞬間から「音楽を掘る」などと言っている暇が1ミクロンもない、人間再教育センターへとブチ込まれたのである。現代のコンプライアンス基準で測れば、一発でYahoo!ニュースのトップを飾れるレベルの愛のムチを、来る日も来る日も全身で受け止めることになった。

そんな私の暗黒肉体労働期、世間では空前の「バンドブーム」が猛威を振るっていた。とりわけ「メロコア」と呼ばれるジャンルがとてもとても流行っていたように思う。地元の友人たちの間では、Hi-STANDARDを筆頭に、BRAHMAN、KEMURI、SNAIL RAMPあたりを熱狂的に聴くのがステータスであり、義務教育であった。義務教育を一通り終えた後は、皆がこぞってバンドを組み始めたのである。もちろん私も五感を持つ人間なので、流行は知っていたものの、放課後は365日、体育館の床に汗と涙を撒き散らしながらボールを追いかけていた為、地元のマブダチと「放課後にマックにたまる」という高校生の基本的人権すら与えられていなかった。当然、「おい、お前もバンドやろうぜ!」という青春の招待状が、私のポストに投函されることはなく、なんとなく寂しい思いをした記憶がある。

地元の友人たちがバイト代を握りしめ、ギターだのベースだのドラムだのといった「モテの兵器」を購入している間、私は寝ても覚めても「ウェイ!!」と声を張り上げ、ボールの軌道を追いかける毎日。いや…実際に時間があったとしても果たしてバンドに誘われたのだろうか?小学校時代に「猫ふんじゃった」の神速まで到達しただけで、その後ピアノと自然消滅した男に、果たしてバンド結成のオファーが来たかどうかは、歴史の闇の中である。
愛のムチを受け続けた過酷な環境下でも、ロックに夢中な地元の幼馴染達に揉まれたおかげで、私自身の音楽に対する引き出しは無駄に増えていった。スピード感のあるロックらしい曲も嫌いではなかったが、なぜか私の疲弊しきった肉体が求めたのは、ハードロックのゴリゴリのコワモテ男たちが、突然神妙な顔をして歌い出す「極上のバラード」であった。エアロスミスの「Angel」や、エクストリームの「More Than Words」といった、鼓膜へ直接マイナスイオンを届けてくれるような名曲たち。これらは当時の私の、部活でボロ雑巾のようになった自律神経を優しく修復してくれたのである。なお、中3の快感が忘れられずに大人になり、現在もしっかりDJをやらせていただいているわけだが、イベント後、疲労困憊で乗り込む早朝のガラガラの電車内でイヤホンから流れてくるのは、今でもエアロスミスだったりする。疲労が溜まると優しいロックを聴きたくなるという習慣はあの頃染みついたのだとこのコラムを書いていて気がついた。

そんな、ボールだけを愛し、ボール以外からはほとんど愛されていなかった私の音楽観を、根底からひっくり返す男が現れた。中学時代の友人「あっちゃん」である。あっちゃんは同じ中学の中でもとびきり頭が良く、仲間内で唯一東京の名門高校へ進学した。埼玉の田舎から高田馬場まで毎日通学するという、当時の私からすると、とてつもなくアーバンでインテリな生活を送っていた。そして、ビッグシティの裏ルートで仕入れた劇薬のようなトレンド情報を、定期的に田舎へ密輸してくれたのである。それが、ZEEBRA、雷、RHYMESTER、BUDDHA BRAND。そう、ヒップホップである。当時の私の脳内ヒップホップ辞書には、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」という国民的パブリックイメージしか登録されていなかった。そこへ、あっちゃんは完全なる別次元のアンダーグラウンドを叩きつけてきたのだ。世間がバンドブームの喧騒に沸く中、私の耳はそちらへと静かに、しかし決定的に引き寄せられていった。
その後、我々が高校生の時に、Dragon Ashの「Grateful Days」が日本中を席巻し、お茶の間のツボを完全ロックする大事件が起きた。しかし、私は「あっちゃんの密輸品」によって、それよりほんの少しだけ早くヒップホップを身につけていたため、「ふん、俺は流行る前から目をつけていたけどね」という、全人類が一度は発症するタイプの邪悪な古参ムーブを高校の同級生の前で遺憾なく発揮していた。実際、クラスメイトの前で「おいおい、ZEEBRAと言えばGrateful Daysより『PARTEECHECKA』じゃね?オリジナルも良いけどBright Light Remixじゃね?」と、さも自分が名付け親であるかのような顔で語り散らしたのだが、高校の同級生たちは、「ハァ?何その呪文?」という顔で、完全に不審者を見る目であった。孤独なパイオニアの誕生である。

そして、私のこの「にわかヒップホップ自意識」に、トドメを刺す事件が起きる。当時、私にはお付き合いしていた洋子ちゃんという彼女がいた。剣道で県代表選手になるほどの運動スキルを持ち、さらにやたらと歌が上手いという、クラスの女子カーストの上位に君臨する子であった。その彼女の前で、私は「これが最先端のカルチャーだ」と言わんばかりにドヤ顔でヒップホップを流し続けたのである。しかし、彼女の耳には、その最先端の重低音はただの「地響き」か「お経」にしか聞こえなかったらしい。彼女は私の顔をまっすぐ見つめ、「うちら、音楽の趣味は合わないね」と、冷徹な判決を下したのである。この時受けた精神的ダメージは凄まじく、30年近く経った今でも不意に夢を見ては「うわあ!」と声を上げてしまうほど、超強烈に脳裏へ刻み込まれている。ただ、学校では派手にヒップホップ古参を気取っていた割には、この時点ではまだ「ヒップホップに骨の髄までのめり込む」という領域には達していなかった。人間、そう簡単に沼の深淵には落ちないものである。しかし、この時の私はまだ知らなかった。数年後、自分が人生の大半をヒップホップとDJに捧げることになるなどとは。
つづく…
