私がDJになるまで 最終回

私がDJになるまで

初めて本物のナイトクラブでフロアをロックし、脳が破裂するほどの快感を覚えてからというもの、私はいくつかのパーティーに呼んでいただき、DJさせていただく機会を得た。

その機会を経て、私の脳内に浮かんだのは、実にシンプルな二つの感情であった。

一つは、「DJって本当に楽しい」という、純粋無垢な幼児のような感動。そしてもう一つは、「プロになりたい」という無謀とも思われる感情だった。たった数回クラブでDJしただけでそんな感情になるのか?と思われるかもしれないが、クラブDJは、私にとってそれくらい鮮烈な出来事だったのだ。

また、恐ろしいほどの快感を得たそのクラブデビューの夜に知り合った仲間たちの存在も、私の人生を大いに狂わせる強力なギアとなった。

このイベントをオーガナナイズしていた「ようへい」という男は、中部地方の老舗和菓子屋の息子という恵まれた環境に生まれながら、すぐには家業を継がず、東京で和菓子修行に汗を流しながらDJ活動にも励んでいた。彼は絵に描いたような「生粋の良い人」だったのだが、そのピュアさ故に「遊んでくれる女性は居ても付き合ってくれる女性が居ない」という不条理なコンプレックスを常に抱えていた。私は彼とDJとして高め合いながらも、共に過ごした時間の半分くらいは彼の不毛な恋愛相談に乗っていた気がする。なお、途中からは適当に「ふーん」と聞き流していたことを、この場を借りて懺悔したい。ようへい、あの時は本当にごめん。

そしてもう一人、その夜にゲストDJとして登場した同い年の「ワイゾー」という男の存在も絶大だった。前出のタメが出演していた新宿izmのイベントをオーガナイズしていた男なのだが、DJとしてのスキルが群を抜いて高かった。そして、頭が切れるのに、全力でバカなことに付き合ってくれる彼の人柄に、私はとても惹かれた。頭が良い分、何事もソツなくこなすのかと思いきや、時折豪快すぎる失敗をやらかす人間臭さもあり、強烈な親近感を抱いたのを覚えている。結果としてワイゾーはDJを職業には選ばなかったものの、持ち前のセンスでラジオ業界へと進出し、その名を轟かせることとなる。現在はラジオの世界を離れたが、さらに大きなフィル―ルドで活躍しており、今でも何かあれば「一緒に仕事をしよう」と声をかけてくれたり、ふとした時に「酒でも飲もう」と連絡をくれたりする大切な戦友だ。常に前向きに走り続ける彼の姿には、いつも素晴らしい刺激をもらっている。

――そうした愛すべき仲間たちと夜を明かし、熱量を分け合う中で、「俺もこの世界で本気で勝負したい」という想いは確信へと変わっていった。

だが、当時の私は、毎月のレコード代で口座残高が虫の息になっている極貧学生。期限も決めず、1円の利益にもならないドブ板営業のようなDJ活動を、ただの「趣味」として一生やり続けるわけにはいかない。そんなことをしていたら、音楽の沼に沈む前に、干からびて餓死してしまう。夢追い人として人生を終えるわけにはいかない。そこで私は、大人としての最低限の理性を保つため、極めて冷徹な「人生の目標」を明確化することにした。

その大きな目標とは、「25歳までにある程度まとまったお金を稼げるDJになること」であった。これは実家の親にも説得材料としてしっかりと話した。四捨五入すれば三十路が見えてくる「25歳」というリアルな年齢制限。そこをデッドラインに設定した私は、「じゃあ、そのために今、何をしなければいけないのか」をハゲるほど必死に考え、即座に実行へと移した。なお、髪もその頃から着実に減り始めた。これは余談である。

「楽しいから」という生ぬるい理由だけで通用する世界ではない。そう理解していた私は、それまで自分を温かく包んでくれていたキャリア初期からのイベントを自ら進んで辞めるという、割とカッコイイ決断をした。あえて自分の退路を断ち、胃に穴が空くほどの大きなリスクを背負いながら、自らイベントの企画・プロデュースを仕掛けていったのである。
さらに、誰もが嫌がる「集客」という泥臭いノルマからも一切逃げなかった。いや、逃げないどころか人より遥かにやった。具体的に数字を言ってしまえば、毎回のイベントで「最低30人」をあの手この手で客を呼んでいたのである。携帯の連絡先を片っ端から網羅し、クラブでは知り合いを増やし、頭を下げて人を集める。華やかな世界の裏で、私のやってることはほぼゴリゴリブラック企業の営業職であった。当然、そうやって新たに関係を築いた人たちのパーティーでは、最初は決まって「オープン直後」や「早い時間帯」の人の少ないフロアを任されることになる。オーガナイザー側からすれば、「あいつは客が呼べるから、とりあえず一番暇な時間にハメて使ってみよう」という冷ややかなビジネス視線で私を見ていることくらいよーーーく分かっていた。それに伴い、周囲からは「あいつはDJの腕じゃなくて、客が呼べるからイベントに出られてるだけだろ」という陰口も、相当数言われていた。それも私はバッチリ認識していた。
だが、私はその前座、俗にいうオープンアップのプレイであっても、一切の手を抜かなかった。自分の客以外知り合いがいない現場の、その時間帯でできる最高のプレイをし、オーガナイザーも周りの演者も、そして私を知らないお客さんも実力で納得させるしか道はなかったからだ。客寄せパンダとして使われるなら、喜んでパンダの着ぐるみを着てやろうじゃないか。なぜなら私には、ある程度根拠に基づいたDJに対する自信があった。

そう、外野がグチグチと陰口を叩いている間、私はDJの練習に文字通り寝る間を惜しんで狂ったように取り組んでいたのだ。己のスキルと選曲を客観視するため、毎週欠かさず自作のミックステープを録音し、それを血眼で聴き直してはアップデートを図るという「セルフ千本ノック」を己に課していたのである。それもただ漠然と繋ぐのではない。「オープン直後の早い時間帯」「客を温めるフロアメイクの時間」「ピークを迎えるメインタイム」、そして「クローズ」と、現場で想定されるすべての時間帯のシチュエーションを想定したテープを、毎週必ず1本作り続けた。いつ、どの時間に放り込まれても、確実にフロアをロックするため、寝る時間も惜しんで死に物狂いで練習した。結果、「客を呼べるだけだろう」と言っていたDJ達の私に対する見方がガラリと変わったのをはっきりと記憶している。

ちなみに当時の私は、あの大規模な情報漏洩事件を起こした直後の「Yahoo! BB」のコールセンターで、日々鳴り止まないクレーム対応の電話を受けるという、日本で最も人々の殺意と罵声が集まる地獄の底のようなアルバイトをしていた。昼間はヘッドセット越しに「どうしてくれんだ!」という理不尽な怒声を鼓膜で受け止めながらペコペコと謝り倒し、夜はヘッドホン越しに重低音を受け止めながら己のミックスを研ぎ澄ます。精神が崩壊してもおかしくない過酷な二重生活であったが、私は「絶対に稼げるDJになってやる」という怨念にも似た執念で、ひたすらその日々のルーティンに食らいついていたのである。
一方で、リスクを背負って立ち上げた自分のパーティーでは、同じ志を持った仲間たちと協力しとにかく人を呼び、自分がメインタイムでこれでもかとプレイし続けた。パンパンの客の前で、物怖じせずに自分という存在を100%吐き出すための「実戦修行」を、ひたすら狂ったように繰り返したのである。周りには同世代で死ぬほど上手いDJがウジャウジャいたし、私にはのらりくらりと言い訳をして立ち止まっている暇など1秒もなかったのだ。
加えて、それまで自分の安全圏の中にいたら絶対に交わることがなかったであろうタイプの人々とも積極的に関係を築き、大人のコネクションを力技で構築していった。25歳までのカウントダウンは、毎秒私の背中を燃やしていた。

その結果――。私の無謀な挑戦を、時に呆れながらも全力で支えてくれた周囲の人たちのおかげで、私は見事にその「25歳の目標」を達成することができた。昼間のクレーム対応の怒声も、極貧生活も、すべてをターンテーブルの上でひっくり返し、自らに課した課題をギリギリでぶち破ったからこそ、私は今もなお、こうしてDJの看板を掲げて生きていくことを許されている。
だから、もしこれを読んでいる若いDJ諸君がいるとしたら、これだけは言っておきたい。周りからの見られ方や、外野のノイズなど1ミクロンも気にする必要はない。自分が「これだ」と信じた泥臭い道を、ただただ脇目も振らずに全力で走り抜けてほしい。偉そうなことを言っている私自身が、客寄せパンダから始まった男なのだから。そして、客寄せパンダだろうが何だろうが、とにかく舞台に立つキッカケを得なければ勝負さえできないと言う事も覚えておいてほしい。舞台に立った時に、周りを黙らせるだけのプレイが出来れば良いだけの話だ。そのDJプレイに価値がある事を証明できればきっとギャラはすぐに貰えるようになるだろう。逆にどんなに集客が出来ても、プレイがダメならお金なんて貰えないと思った方がいい。DJというのは、行けばお金が貰えるアルバイトではないのだ。(そういうバイトもあるみたいだけど。)そして、その判断をするのは自分ではなく、ギャラを払うオーガナイザー、箱側である事も理解しなければならない。おっと…ちょっとお説教臭くなってしまった。

その後、正真正銘のプロフェッショナルとなってから現在に至るまでの道のりは、まさに山あり谷あり、絵に描いたような波乱万丈であった。胃がねじ切れるほど辛いこともあったし、逆に、普通に会社員として生きていたら絶対に味わえなかったであろう、言葉にできない奇跡のような経験もたくさんしてきた。それでも、あの頃から音楽、クラブ、そしてDJに対する情熱だけは、1ミリも目減りしていない。それどころか、年々濃度を増して私の血肉となっている。いろいろと偉そうな自虐を並べてきたが、結局のところ、私は毎週末、暗闇と重低音のなかでターンテーブルの前に立つたびに、確信せざるを得ないのだ。

「ああ、やっぱりクラブDJは、俺の天職だ」と。

ただ、そうやって自分のエゴと執念だけで突っ走ってきたこれまでの道のりの中で、決してお洒落な綺麗事ばかりではなかったことも、この場を借りて告白しておかなければならない。若さゆえの暴走や、未熟さから、これまで本当にお世話になってきた諸先輩方、血を分けたように一緒にやってきてくれた仲間たち、そして何より私にプレイする場所を与えてくださった各クラブの方々には、時には大変な、本当に大変なご迷惑やご心配をおかけしたこともあった。若気の至りという言葉では到底片付けられない大ポカをやらかした夜の記憶は、今でも私の脳内で冷や汗となって噴き出す。それでもなお、そんな私を完全に見捨てることなく、時に厳しく、時に温かく包み込んでくれたこの世界で繋がった人たちの存在があったからこそ、私はこうして今日までDJを続けてくることができたのだ。言葉では言い表せないほどの深い感謝の気持ちしか浮かんでこない。

だからこそ、今、そしてこれからの「DJ SHUNSUKE」がやるべきことは、極めてシンプルだと思っている。一つは、現状に満足することなく、ひたすら己のDJスキルを磨き続け、常にアップデートされた最高のプレイをフロアに提供し続けること。そしてもう一つは、右も左も分からなかった埼玉のいなかっぺ大将をここまで育ててくれた、この愛すべきクラブカルチャーという世界に対して、どんな形であれ、自分がもらった以上の「恩返し」を全身全霊で取り組んでいくこと。それが、この世界に育ててもらった人間の義務だと思っている。

高校生の時、バーミヤンでビギーのJUICYに脳を焼かれ、渋谷ismで大人たちを踊らせて狂喜乱舞していた埼玉のいなかっぺ大将は、今もなお、お世話になったすべての人への感謝を胸に、最高に気持ちいい音を今日も堂々と鳴らし続けている。……などと、それっぽい綺麗事で有終の美を飾ろうとしたが、つまるところ私は、今週末も暗闇の中で爆音とウォッカを浴びて大笑いしたいだけの、ただの救えない音楽中毒者なのだ。私の人生を完全に狂わせてくれたこの最悪で最高の天職に、心からの愛と感謝を込めて。

(私がDJになるまで。・完)

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