2016 Interview: MC RYU for InterFM TOKYO SCENE 1
本記事は、2016年にInterFMのラジオプログラム『TOKYO SCENE』のウェブサイト上に掲載されたインタビュー記事を、アーカイブとして再掲載したものです。掲載内容は公開当時のものであり、肩書きや活動内容などは現在と異なる場合があります。
このTOKYOSCENE NEWSの本家、TOKYOSCENEのパーソナリティである「MC RYU」
当然私、DJ SHUNSUKEも若い頃から数々の番組でお世話になり続けてきたHIPHOPレジェンドのお一人です。
今回特別企画でそのRYUさんにインタビューをさせてもらいました!RYUさんの生い立ちから音楽のルーツ、RADIOのMCになった経緯や、今後の日本のクラブシーンへの希望など様々なお話を聞かせていただきましたのでご堪能ください!
かなりの長編になりますので数回に分けております。まずは生い立ちからRADIO MCになるまで、、、、普段聞けないお話ばかり、保存版です!

ベトナム戦争下のLAと「オットセイの肉まん」
SHUNSUKE:
今回、このような形でインタビューをさせて頂けることになって本当に感謝感激です。本日はよろしくお願い致します! さっそくですが、RYUさんのこれまでの経歴を僕なりにまとめてきたのですが、高校生まではロサンゼルス(LA)にいらっしゃったんですよね?
RYU:
そう! アメリカへ渡ったのが1973年。73年という時代は、アメリカはまだベトナム戦争の真っ最中だったんだよね。だから国が外国人や移民にもどんどんグリーンカード(永住権)を配っていた時期でさ。うちの親父は「今グリーンカードを貰うということは、イコール『戦争に行け』と言われているようなものだ。うちの息子には絶対に戦争なんて行かせない」と言ってね。当時は「グリーンカードは絶対に貰っちゃいけない危険なもの」という認識の時代だったんだよ。
うちの妹なんて生まれてわずか9ヶ月で渡米したから、近所のアメリカ人たちが「ジャパニーズ・ベイビーだ!」って珍しがってわざわざ見にくるような時代でね。ある時、家で肉まんを出したら、白人の人たちが「これはどうやって食べるんだ? フォークを使うのか?」って困惑していてさ(笑)。
肉まんを割ると中にシイタケが入っているでしょ? それを見た彼らが「オーマイガッ! オットセイだ! オットセイの肉は食べられない!」って大騒ぎするわけ。俺が「いやいや、これはシイタケっていうキノコだよ」って説明しても、「こんな黒い皮は絶対にオットセイの肉だ!」って言い張るような、それくらいまだお互いの文化が未知だった時代なんだよね。
インパラのスピーカーから流れたソウルの原体験
RYU:
そんな環境の中で、俺の音楽のルーツになったのが車のラジオだった。親父がシボレーのバカデカいインパラに乗っていてね。ダッシュボードに、両手いっぱいの大きさの穴がボコボコに開いた古いスピーカーが埋め込まれていたんだ。そこからフォー・トップス(The Four Tops)とか、70年代当時のレイ・チャールズ(Ray Charles)、ジェームス・ブラウン(James Brown)の曲が、すでに懐メロ(クラシック)として毎日のように流れていた。それを本当に浴びるように聴いて育ったから、俺の音楽の根底には今でもソウル(Soul)が深く染みついているんだと思う。
LAって、毎日もの凄く綺麗な夕焼けが見えるんだけど、その夕暮れ時に、車の小さいスピーカーからザラついた音で流れてくるソウルが本当に心地よくてね! それが俺の人生における、音楽の最初のエクスペリエンス(原体験)だったな。
ロック全盛期からブラックミュージックへの回帰
RYU:
その後、中学校に上がるとだんだん年齢的にも尖ってくるでしょ? 当時、現地で『マイティ69』っていう大人気のラジオ番組があって、基本的にはロック中心の選曲なんだけど、そこへアース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth, Wind & Fire)やクール・アンド・ザ・ギャング(Kool & the Gang)、そしてマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)といったブラックミュージックが台頭して、徐々にチャートへ食い込んできたんだ。それをきっかけに、俺も本来のルーツであるブラックミュージックへ戻っていった感じだね。
実はそれまでのティーンエイジャーの頃は、めちゃくちゃロックにハマっていたんだよ。LAって空気がカラッと乾燥しているから、エレキギターのディストーション(※1)の「ギュイーン!」っていう歪んだ金属音がもの凄くクリーンに響いて空間に合うんだよね。80年代に入ってからは、ヴァン・ヘイレン(Van Halen)、オジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)、AC/DC、ザ・ポリス(The Police)なんかをリアルタイムで熱狂的に聴いていた。まさにロック全盛期をど真ん中で駆け抜けたわけ。
ストリートの日常に溢れていたファンクの本質
RYU:
そしたらある日突然、ストリートの路上にダンボールを敷いて、その上でクルクルと頭で回る黒人の若者たち(B-BOY)が現れたんだ! もちろん昔から、街にはコテコテのファンクなおじさんたちはいっぱいいたんだよ。キャデラックに乗って、バカデカい毛皮のファーコートを着込んでいるような派手な黒人たちがね。
幼い俺はいつもお袋に「なんであの人たちはあんな格好をしているの?」って不思議そうに聞いていたんだけど、お袋は「あの人たちはね、長い間ずっと社会から不当に押さえつけられて生きてきたの。それが今、やっと自分たちの力でお金を手に入れることができたから、今まで我慢して出来なかったことを一生懸命表現しているんだよ」って教えてくれてね。
そういう背景や歴史が、子供ながらに自然と身についていた時代だった。だから、後に日本で『SOULTRAIN』(※2)のパーソナリティをやることになった時も、何か特別な勉強をしたわけじゃなくて、幼少期から自分の体に自然と染みついていた知識や感覚を、ただそのままマイクの前でありのままに出していただけなんだよね。俺の人間としての基礎は、間違いなくあのLAのストリートで形成されたと思う。
アイデンティティ・クライシスと徹底した実力主義
RYU:
ただ、当時はアメリカならではの深い悩みもあったよ。自分は見た目も生い立ちも日本人だし、日本国籍なんだけれど、学校で受ける教育も耳に入ってくるカルチャーもすべてアメリカのもの。周りのアメリカ人の友人からは「お前は中身もすっかりアメリカ人だよ」と言われてさ。いわゆるアイデンティティ・クライシス(自己喪失)に陥って、「俺は一体どこの何者なんだろう?」って激しく葛藤した時期もあった。
そんな時に、やっぱりHIPHOPや音楽の存在が俺の背中を押してくれたんだ。「周りに合わせる必要なんてない、お前はお前のままでいろ」ってね。当時、ストリートでスポーツをやっていても、やっぱり勉強や社会の仕組みは白人優位だったし、身体能力では絶対に黒人には敵わなかったから、余計に葛藤したんだよね。
SHUNSUKE:
確か、現地では本格的にアメリカンフットボールをされていたんですよね?
RYU:
そう、学生時代はずっとアメフト一筋。LAのストリートの人間って基本はみんなバスケをやるんだよ。中学校の休み時間でも放課後でも、ストリートに集まれば必ずバスケ。アメリカでストリートバスケをやる時って、まず最初に上手い奴が2人キャプテンとして選ばれた、そのキャプテンが交互にメンバーを指名していくんだよね。「俺はこいつ」「じゃあ俺はこいつ」って感じで。だから、最初のほうに名前を呼ばれると子供ながらにもの凄く嬉しいわけ。
周りに身体能力の高い黒人や白人がたくさんいる中で、キャプテンが「俺はRYUを入れる!」って指名してくれたりしてさ。あの年齢の子供たちの遊びの段階から、アメリカっていう国は完全に徹底した「実力主義」なんだよね。俺はあの多感な時期に、「この国は完全な実力主義だ。自分には自分にしかない武器(実力)がないと、一瞬で置いていかれる世界なんだ」ということを身を以て知った。何か特別な才能を持っている人間はどこまでも評価されて上にいけるけれど、何も持たない人間は容赦なく切り捨てられるし、誰も拾ってはくれない。そんなシビアな時代であり、環境だったな。
帰国、上智大学への入学、そして体育会系での「根性」
RYU:
大学進学のタイミングで、奇跡的に日本へ帰国することになってね。本当に運良く、上智大学の経済学部という偏差値の高い名門校に入れてもらったんだ。当時はまだ帰国子女枠の入試だったから、筆記試験の解答欄はほぼ白紙状態で何も書いてないに等しかったんだけど(笑)、その代わり英語の試験だけは圧倒的な100点。あとは小論文を少し書いて、面接で自分の自己アピールをしまくったら、熱意を買われて合格させてもらったんだよね。
上智大学という学校は昔から帰国子女の受け入れにすごく慣れていてね。教授たちも「この野郎、中身はアメリカ人だな!」なんて冗談を言いながらフランクに接してくれたし、「日本の社会や組織ってこういう仕組みなんだぞ」というのを愛を持って叩き込んでくれる大人がたくさんいた。周りの学生にも、見た目は日本人だけど英語しか喋れないような同じような境遇の奴らがたくさんいたから、すごく居心地が良かった。
そして、大学の4年間はアメフト部というゴリゴリの体育会系の部活に入って、日本のいわゆる「気合と根性」の文化を骨の髄まで叩き込まれたんだ。今振り返っても、もしあの時に体育会系を経験していなかったら、今の俺は確実に日本でパーソナリティとして生きていけなかったと思うね!
先輩後輩の絶対的な上下関係や不条理さ、理屈抜きで「日が暮れるまでひたすら走れ!」と言われるような過酷な世界。まさに、水分補給をしちゃいけない時代の古い体育会系の最後の世代(笑)。でも、あの不条理なしごきを泥臭く経験できたおかげで、俺の血の中にようやく「日本人としての根性」が宿ったというか、本当の意味で日本人になれた気がするんだよね。
93年、日本のHIPHOP黎明期とクラブの熱狂
RYU:
大学に入ってから、自然と日本のHIPHOPシーンやクラブカルチャーと密接に出会うことになった。当時は六本木に「EROS」(※3)っていう伝説のクラブがあってさ。DJの宇治田みのるさんたちと一緒に毎晩のように遊びに行くようになって、その後、西麻布に「R-HALL」(※4)ができるんだ。日本のHIPHOPシーンがまだ産声をあげたばかりの、黎明期の時代だね。
だけど、シーンがまだ小さかったにもかかわらず、現場にはすでにジブラ(ZEEBRA)がいて、ライムスター(RHYMESTER)がいて、キングギドラやランプ・アイ(LAMP EYE)(※5)、そしてマイクロフォン・ペイジャー(MICROPHONE PAGER)(※6)といったレジェンドたちが勢揃いしていたんだよ。彼らが作り出す最先端の音楽と熱量は、当時本当に凄まじいことになっていてね。
RINO(RINO LATINA II)やLAMP EYEが「今夜、現場で新曲を初披露するらしいぞ」って噂が流れると、クラブに向かう道中からもの凄く緊張したのを覚えている。「おい、あいつら次は一体どんなヤバいことを仕掛けてくるんだ!?」ってさ。あの頃のクラブへ行く時のドキドキ感や、現場に漂う独特のヒリついた緊張感。まさに、本物のセックスの匂いと、アングラならではの危ない匂いがフロア全体に充満していた最高の時代だったな。
SHUNSUKE:
これが、だいたい1993年あたりの頃のお話ですよね?
RYU:
そう! ちょうど93年くらいに日本のHIPHOPが一気に爆発していく時期の話だね。
SHUNSUKE:
RYUさんは大学卒業後、一度大企業に就職されて、通訳としてバリバリお仕事をされていた時期もありますよね? ということは、昼間は会社員として働きながら、夜はラッパーとして活動されていたということですか?
ノリで入社した一流商社、そして「ファンクネスゼロ」の現実
RYU:
大企業に就職した理由なんて、本当にただのノリというか、時代の波にうまく転がっていっただけなんだよね(笑)。普通の学生だったら汗水を垂らして必死に就職活動(就活)をするんだろうけど、俺は帰国子女だし体育会系だったから、就活なんて一回もやったことがなくて!
大学4年間アメフト部で泥まみれになってやっていると、部室に頻繁にOBの先輩たちが顔を出しにくるんだよ。一流銀行や大手商社、広告代理店なんかでバリバリ働いている輝かしい先輩たちがさ。彼らが「RYU、お前卒業したらうちの銀行に来いよ!」「いや、お前は絶対に商社向きだろ!」って声をかけてくれて、そのまま夜の街へ飯に連れて行ってくれるんだ。銀座の一流店で美味いうなぎをご馳走になったり、高級な天ぷらを食べさせてもらったりしてね。先輩の会社の経費で、生まれて初めてあんなに旨いものを食べさせてもらうわけだから、学生の俺は「うわ〜! 社会人ってなんて最高なんだ! 早く会社員になりたいな!」って単純に思っちゃったんだよね(笑)。
本当は当時からテレビ局の誘いもあったし、エンタメの世界に行きたいという気持ちはあったんだ。ちょうどJ-WAVEが開局したばかりのタイミングで、局のセミナーなんかにも足を運んだりしていたんだけど、最終的に自分の性格に一番合いそうなのは「商社」かなと思ってね。周りの大人たちからも「まずは一度、世の中の大きな仕組みを学ぶために大企業に入っておきなさい」とアドバイスされて、大手商社へ入社したんだ。
ところがさ、いざ商社に入社してみたら、そこには俺が愛する「ファンクネス(泥臭いカッコよさ)」がミリ単位も存在しなかったし、B-BOY的なストリート感も当然ゼロ。通用したのは体育会系で培った「イエス、サー!」っていう根性の部分だけだったんだよね。今の時代はクリーンで全く違うと思うけれど、当時の上司からは開口一番「おいRYU、この会社に入った以上、お前に私生活(プライベート)なんてものは存在しないからな」って真顔で言われてさ。さらに「お前がこの会社で目指すべきゴールはあそこだ」と指さされた先にあったのは、仕事中にテレビで巨人・阪神戦をのんびり眺めている部長の椅子だったんだよね。それを見た瞬間に、「俺は絶対に将来あんな場所には座りたくない。自分の魂を売ってまでここにいたくない」って強烈に思っちゃって。
ただ、新入社員の同期の中では、ありがたいことに俺が一番最初に出張に行かせてもらったんだよ。さすがは大企業だから、海外出張に行くとなれば「出張前準備費」としてポーンと10万円くらい支給されて、それで高級なスーツケースを買いに行ってさ。初めて飛行機のビジネスクラスに乗らせてもらった時は、「なるほど、これが一流商社のVIPな世界なのか」っていうスケールの大きさは肌で感じたけれどね。
だけど、頭の中がHIPHOP一色で、毎日ブラックミュージックばかり聴いていた奴が、いきなりそんなお堅いビジネスマンの生活を送ったところで、すぐに「俺は一体ここで何をやっているんだ?」って自己嫌悪になっちゃって。「ここには決定的にファンクネスが足りない! ロックな魂が全くない!」って爆発しちゃんだ。会社にいることが毎日嫌で嫌でたまらなくなって、結局、自然と会社を辞めていたよね。
実は、辞める決定的なきっかけとして、別の大手外資系企業から好条件でヘッドハンティングされたことがあったんだ。それで前の商社をスパッと退職したんだけど、いざ新しい外資系企業に入社する直前になって、「……いや、やはりごめん。俺、組織で働くの無理だわ」って直感で内定を辞退しちゃって(笑)。そのまま路頭に迷う形で、当時の音楽の仲間に「俺、会社全部辞めて本気でこっちの音楽の世界に行くわ!」って宣言した。そこから本格的にラップの猛勉強を始めて、毎晩のようにクラブに通い詰めるリアルなストリート生活が始まったんだよね。
SHUNSUKE:
そこからいよいよ、RYUさんの本格的なキャリアがスタートしたわけですね。
ストリートの「真反対」な世界とZOOとの出会い
RYU:
それまで日本に帰国して上智大学に入った時は、死ぬ気で受験勉強を勝ち抜いてきたような、いわゆる素晴らしいエリート気質の優秀な子たちとばかり4年間付き合ってきたわけじゃない? ところが、会社を辞めていざストリートや音楽の世界にドップリ浸かってみたら、出会う人間たちがこれまでの環境と「真反対」すぎて笑っちゃったよ(笑)。周りはチーマー上がりの奴らから始まって、筋金入りの元不良、中卒のゴリゴリのストリート育ちばかり! 彼らから真顔で「なぁ、毎日スーツを着てカチッとした会社に行くって、一体どんな気分なんだよ? 俺たちには想像もつかねえわ」なんて純粋に質問されたりしてね。
その当時、一番親身になって仲良くしてくれたのが、のちにモンスターグループになる「ZOO」(※7)の周りのメンバーだったんだ。ボビー(BOBBY)、ヒロ(HIRO)、ルーク(LUKE)、キャップ(CAP)あの辺の初期メンが、新参者の俺に対して本当に優しく接してくれてね! 彼らはダンサーだから、本場アメリカのストリートカルチャーや現地のリアルな英語のスラングにもの凄く興味を持っていたんだよ。俺には彼らに教えてあげられる本場の知識が山ほどあったから、言葉の壁を越えて一瞬で打ち解けられたし、一緒にいて本当に居心地が良かった。
その頃から、レジェンドダンサーのHORIE君(※8)たちと一緒に海外のダンスビデオをひたすら観たり、自分たちで映像を撮影して編集したりするような、最高にクリエイティブで楽しい日々が始まったんだよね。
「じゃあその当時、会社も辞めてどうやって食い繋いでいたの?」ってよく聞かれるんだけど、俺には『本物の英語ができる』っていう最強の通訳のスキルがあったから、実はかなり若くして羽振りが良かったんだよ!(大物アーティストが来日した際の通訳など)週に2、3回パッと働くだけで、贅沢な暮らしとまではいかなくても、東京で一人暮らしをして、夜な夜なクラブで豪快に遊ぶだけのお金は充分すぎるほど稼げていたんだよね。その自由で刺激的なストリート生活が楽しすぎてさ、結局『SOULTRAIN』の帯番組が始まるまでの約7年間、ずっとそのライフスタイルを続けていたよ(笑)。
ネットラジオ黎明期の「視聴者8人」の猛訓練
RYU:
それでインターネットの放送局が出来て、まだ全然早すぎたけど「ぴーひゃらひゃら」って言って繋ぐ時代だったから。その時にインターネットラジオ局っていうのをやってて8時間1日枠貰ってたんだけど、8時間あっても長くてしょうがないからファンクマスター・フレックスのMIXTAPE流して「じゃあ僕はランチに行ってきます」っていうような。
タワーレコード新宿店でやってたんだけど、そこで俺は無理くり喋る事を覚えたんです。アクセス数が出たんだけど4人とか(笑) MAX8人とか。「おい聞け! 全員8人とも!」とか言って(笑)。
それでマイクの前でとにかく喋りを訓練したおかげでSOULTRAINがすぐ出来たって感じだね。
次回へ続く…
※1 意図的に歪んだ音色を得るエフェクター。主にエレキギター等の音響信号を増幅回路で増幅した後、クリッピング素子に過大入力として与えることで、意図的に歪ませる。
※2 J-WAVEで平日・深夜AM0時30分〜AM2時に放送されていたブラックミュージックプログラム。選曲は主に1970年代〜現在までの中から有名曲を中心に幅広く選曲されていた。
※3 六本木、内田ビルB1にあったクラブ。宇治田稔氏を始め様々な有名DJ、アーティストが出演していた。
※4 六本木スクエアビル最上階にあったHIPHOPクラブ。眺めは最高だったとの話。
※5 MCのRino、Gama、DJ Yasの3人組ユニット。「証言」「下克上」など多くのJapanese Hip Hopクラシックを残している。
※6 MURO、TWIGY、P.H.FRON、MASAO、DJ GOでMICROPHONE PAGERを結成。マイクを使ってペイジャー(ポケベル)の様にメッセージを伝える事が名前の由来。その当時、お笑いのイメージが強かった”日本語ラップの改正”をすべく活動を行ってきた。
※7 現・EXILEのHIROが所属した1990年代に活躍したダンスボーカルユニット。
※8 ストリートダンス創世記である1980年代前半から活動していた日本のHIPHOP創世記から活躍するダンサー。Sound Cream Steppers。